涼宮ハルヒの消失

見てきました。

まず言いたいのは、150分を舐めた自分がバカだった、ということ。始まる前にちゃんとトイレに行くこと。水分の摂取は最小限に抑えること。以降気をつけます。

えと。思い出しながらメモ程度に書いてゆきます。ネタバレしていますので注意です。未視聴の方は読まないで下さい。


全体を通して、とても丁寧に描かれていると思いました。丁寧に、と言うのは、例えばキャラクタの動作の一つ一つに神経が行き届いているかのような、物語に直接関係のない動作や仕草に逐一カットを割いて写していくあたり。この丁寧さが、たぶん映画の雰囲気そのものを作っているように見えたので、不要だった、削れた、とは言いません。必要な150分だったと思います。

これをもし削ったとしたら、たぶん冬の映画にはならないだろうな、とも思いました。冬と言うのは、個人的に日常系に適した季節、つまり、より小さいスケールの出来事を描くのに適していると思っています。こういう小さいイベント(動作、仕草)の積み重ねで季節そのものを表しているとすれば、どちらも削るわけにはいかないでしょう。

見ていてまず始めに思ったのは、12月18日のキョンの反応の不自然さ。ちょっと、見ていて鬱陶しかった。ハルヒがいなくなったという事の(キョンにとっての)重大さを示すという意図は伝わります。これがなければ終盤のキョンの校門前での自問自答部分に説得力を持たせにくいと言うのもわかります。それにしても、ちょっと過剰に思えました。このキョンの面倒臭さはかつてのハルヒと同程度だろうなあ、と思ったりも。

それから(飛びますけど)キョンが入部届けを長門に返すシーン。ここは、前半の山場であると同時に、この映画を「長門の映画」と考えた時、最大の山場になる場面だと思います。にも関わらず、長門が手を伸ばすシーンに時間をたっぷり割いて描いたのみで、キョンの「俺はハルヒ派だ」とでもいわんばかりの笑顔によってあっさりとシーンが進んでしまう(笑)

キョンに思いを寄せていた(ように見えました)長門の思いが、かくもあっさりと切り捨てられてしまったわけです。キョンが鈍感だという設定は確かにあるので、キョン視点を優先するならばあのシーンはあの程度の描写でいいのでしょう。でも、もう少し視聴者視点、いうなれば長門の視点を多めに取って頂いて、長門キョンにフラれる(!)という一大スペクタクルを描いて欲しかったなあ、という感想です。

ちょっと戻って「長門の映画」の話。事前に「消失は長門の話」ということを聞いていたので、中盤の文芸部の長門のターンに入ったとき、「この長門長門じゃない!」などと憤りがちに見ていたのですが、終盤にさしかかって「そういう話だったのですね」と納得。

つまりこの映画、長門ファン視点から好意的に解釈すると、ハルヒに嫉妬した長門が、世界を書き換えてキョンに告白する話なんですよね。言ってしまえば、キョンがエンターキーを押す事で「ハルヒがいる世界」を選択した瞬間、物語としては終わっていると思います。それ以降は、それまでの物語を説明する「解決編」に相当する部分であり、言うなればラストの病院屋上でのシーンが「犯人の独白」です。どこに重きを置くかは人それぞれだとは思いますし、それによって「何の」映画なのかは変わってくるのでしょうけど。

あとはより細部。レイアウト監修に木上さん。全編通してレイアウトが冴え渡っていました。キョン視点を強調するためか、キョン視点で瞼が開くカット多数。これを減らしたら、多分長門の描写がもっと増えたのでは、という希望的観測。ハルヒではありえません。背景の緻密さの差異はわりとよく見えました。実写トレスのようなリアルな背景もあり、普段のようなクオリティの高めの背景もあり。前者は遠景が多かったような。特に病院屋上のシーンは違和感を覚えるほどのリアル背景。キャラクタもフルで動かしていました。どういう狙いがあったのだろう。見せ場だから、ってだけじゃなさそうです。

京アニの映画はたぶん初めて見ました。クレジットが予定調和過ぎて楽しめません(笑) クレジットといえば、エンドロールには驚きました。ていうか茅原実里さんのアカペラ曲。あれは完全に、映画に見入った人を「聴かせる」ための演出です。相当に本編と、何より曲に自信がないと出来ない芸当。やるなあ、と最後まで思わされました。